今回は生物や環境分野でのSIの利用の一端と同位体効果を簡単にご紹介します。
1.標識化合物の利用
1-1.呼気試験
ヒトは食物を摂取し、酸化して二酸化炭素を排出しますので、様々な炭素13標識化合物を摂取して呼気中の炭素13標識二酸化炭素濃度や経時変化を測定することにより、関連する代謝機能を調べることができます。オクタン酸や酢酸を使った胃の排出能、トリグリセリドを使った小腸での脂肪吸収能と膵臓の外分泌機能、グルコースを使った肝臓の糖代謝機能などです。また、標識尿素を摂取して呼気中に標識二酸化炭素が検出されると、ヘリコバクター・ピロリ(ピロリ菌)のウレアーゼの関与が疑われるので、ピロリ菌の迅速な検出法として有用です。
1-2.生理生化学研究
重水素、炭素13、窒素15標識化合物などを使って、同位体効果に留意しつつ、鎮痛剤、血圧降下剤、漢方薬などの代謝物の構造、薬物動態が解析されました。また、標識アミノ酸を使ってタンパク質の生合成やその代謝を追跡し、腫瘍マーカーの探索も行われています。
1-3.反芻家畜の栄養生理学
ヤギやヒツジの第一胃に標識化合物を加え、微生物によるタンパク合成が解析されました。また、同位体希釈法により炭水化物と窒素の代謝回転速度が解析されました。具体的には、重水素標識グルコースを静脈内に投与して一定時間後に血中のグルコースの重水素濃度を測定します。例えば、その濃度が加えた標識グルコースの1/1000であれば、その動物体内のグルコース量は標識グルコース量の約1000倍です。この時間変化を測定して代謝回転速度を算出します。
2. 環境中のSIの利用
2-1.ドーピング検査への利用
男性ホルモンの異性体比や代謝物の存在比は、人種間に大きな差があるのでドーピング検査の基準としては適切ではありません。近年、合成ホルモンの炭素13存在比は、生体内で合成される男性ホルモンの値よりも低いことが判明しました。そこで、男性ホルモンの代謝物の炭素13存在比がドーピングの判定基準になりました。
2-2. 海洋の食物連鎖
海洋生物のタンパク質の窒素15や炭素13存在比は、代謝過程の同位体効果により植物プランクトン、動物プランクトン、小魚、中魚、大魚の順番で大きくなることが知られています。つまり食物連鎖の上位に位置するほどSIの存在比が高くなります。この関係は陸上動物にも当てはまるそうです。このことから捕食者と被捕食者の関係や生態系における食物網の構造が研究されています。
2-3.水田土壌の炭素の動態
植物が土壌から栄養素を吸収するには、根の周囲に生存する根圏微生物の関与が必須です。根圏微生物は多様で、土壌は複雑な生態系を構成しているので、炭素動態を解析するためのモデル化は困難です。そこで実際の土壌やポット栽培に、炭素13標識二酸化炭素を吸収させて水稲のセルロースなどを標識する、或いは様々な炭素13標識化合物を加えます。根圏微生物がこれらの標識化合物を利用するとDNAやRNAに炭素13が取り込まれます。この解析法により、鉄還元菌や脱窒菌などのバクテリア、バクテリオファージ、古細菌などが、収穫後の水稲遺体や水稲の光合成産物を利用して炭素循環に関与していることが判明しました。
3.資源としての利用
水素やヘリウムのような小さな原子の原子核同士が融合すると原子核のエネルギーはより低くなり、差分のエネルギーを放出します。これが核融合反応です。太陽は主に水素原子同士の核融合反応によりエネルギーを放出しています。人工的には重水素同士、或いは重水素と水素3(三重水素)の核融合が可能と考えられています。原子力発電の核分裂反応と違い、放射性物質を生成しないこと、原料は海水中に無限に存在することから、究極のエネルギーと言われています。今世紀後半の実用化を目指して、日本を含む数か国で開発が進められています。
4. 同位体効果
分子を構成する原子間の結合は、周囲の温度に応じた振動エネルギーを持っています。原子が重いと振動エネルギーが下がるので、結合を切断するには余計にエネルギーが必要になります。例えば、アミノ酸のアミノ基が窒素15の場合は、通常の窒素14よりも窒素と炭素の結合が切れにくくなり、アミノ酸として生体内に蓄積します。また、重水素の水の沸点と融点はそれぞれ101.4℃と3.8℃であり、水素1の水よりも高いことも知られています。一方、重水素は水素1よりも原子半径が大きいので他の原子との結合距離が長くなり、結合を弱めることも知られています。実際の同位体効果はいくつかの要因の総合的な結果と考えられています。
同位元素は化学的性質が似ているからこそ標識化合物として使えますが、実はわずかな違いが存在しています。それを逆手にとった研究手法もあります。核融合炉の実現は先の話としても、身近な素材の使い道はまだまだありそうです。