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【 連載コラム 】

大切なことは疑問を持ち続けること(1)

長い間、元素は永久不変と考えられていましたが、1900年を挟んで20年くらいの間に相次いだ放射線の発見は、その概念を覆しました。

2019-07-11 16:45

長い間、元素は永久不変と考えられていましたが、1900年を挟んで20年くらいの間に相次いだ放射線の発見は、その概念を覆しました。これらの発見は原子の構造解明に大きく寄与しました。科学者は理論や常識では説明できない現象に遭遇した時、既成概念に縛られながら考えを巡らせ、やがて殻を破ります。怒涛の如く発展したその経緯を2回に分けて紹介します。

19世紀中ごろには、熱力学、電磁気学、光学、有機化学、無機化学などが発展し、元素の種類を特定できるスペクトル分析、電気量を測定する電位計、元素の質量数を原子量として測定する方法、高い真空を達成できる技術などが確立されおり、放射線発見の機は熟していたと言えます。

その発端は真空放電現象の研究です。

ガラス管の両端に電極を設置し、中の空気を抜いて密封した装置(放電管)の電極間に電圧をかけると残存気体が光ります。この現象が真空放電です。放電の様子は放電管内に残存する気体の密度(圧力)によって変わり、密度をかなり下げると、真空放電は消えて、陽極付近のガラス管内壁から蛍光が出るようになります。この蛍光は陰極から放出された正体不明の放射線によって誘起されたと考えられ、正体不明の放射線には「陰極線」と名前が付けられて新たな研究対象になりました。

・1985年、ドイツの物理学者レントゲンは放電管の実験中に室内に置いた蛍光板から蛍光が出ていることに気が付きました。陰極線はガラス管壁を透過できないので、陰極線とは異なる謎の放射線が出ていると考えました。この放射線はガラスも分厚い本でも透過することがわかり、X線と名付けられました。X線の発見は瞬く間に世界中に広がり、日本でもその翌年から研究が始まりました。

・1896年、フランスの物理学者ベクレルは蛍光或いは燐光(燐光は蛍光と同様に、可視光或いは太陽光を物質に当てた後に発生する光です。蛍光よりも寿命が長いという特徴があります。)を出すことが知られていたウランもX線を放出するか調べました。ある日、机の抽斗にウラン化合物と一緒にしまっておいた写真乾板が感光していることに気が付き、ウランから何らかの放射線が出ていると考えました。X線は放電管に電圧をかけた時にのみ発生しますが、この放射線は何の刺激も必要とせず、ウランから自発的に放出されるので、X線とは明らかに異なります。この発見もすぐに世界中に広がりました。

・1897年、イギリスの物理学者J.J.トムスンは陰極線の電磁気学的性質からその正体は負の電荷をもった粒子であることを発見し、「電子(electron)」と名付け、電子が原子の構成要素の一つであると考えました。尚、「電子」は、1891年にアイルランドの物理学者ストーリーが電気の基本単位に名付けた造語です。

・1898年、ポーランド生まれの物理学者マリー・キュリーは自らの学位論文のテーマとして放射線の研究を始めました。その後、夫のピエール・キュリーと共同で研究を進め、ウラン鉱石(ピッチブレンドと呼ばれます)の中にウランよりも強い放射線を放出する2種類の未知の元素の存在を確認し、ポロニウム、ラジウムと名付けました。マリー・キュリーは放射線を自発的に放出する現象を「放射能(radioactivity)」と名付けました。

・同年、ラザフォードはウランから出る2種類の放射線の電離能力や透過性がX線とは異なることを発見し、アルファ線、ベータ線と名付けました。

・1899年、ラザフォードやベクレルやその他何人かの物理学者が独立に、ベータ線は負の電荷をもった電子であることを発見しました。

・1900年、フランスの化学者であり物理学者でもあるヴィラールはウランからX線に似た放射線が出ていることを発見し、ラザフォードはそれをガンマ線と名付けました。

・1902年、キュリー夫妻はピッチブレンドからほぼ純粋なラジウムを分離し、その存在を実証しました。また、ウラン、トリウム(ウラン同様に放射線を放出することが知られていました)、ラジウムなどから放出される放射線のエネルギーは極めて高く、化学反応の産物ではないと考えました。

・1903年、ラザフォードとイギリスの化学者ソディはトリウムが放射線を放出して別の元素に変わり、その元素も放射線を放出することを発見しました。そして、ウランやトリウムに一連の元素の変換経路(崩壊系列)が存在することを示しました。彼らも放射線のエネルギーは通常の化学反応よりもけた違いに大きく、化学反応とは異なると考えました。

ラザフォードらが崩壊系列の発想に至ったのに対し、キュリー夫妻は放射線の放出によっても元素は変わらないと考えていました。その違いは、彼らが扱っていた放射性物質の性質によるものでした。もし、キュリー夫妻がラザフォードらと同じトリウムを研究対象としていたならば、元素の崩壊を考えたことでしょう。この話はまた別の機会に紹介したいと思います。

次回は、原子モデルの変遷を中心に紹介します。